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HOMO SAPIENS 人類遺産(Nikolaus Geyrlhalter ニコラス・ゲイハルター監督)@シアターイメージフォーラム

 廃墟マニアと言うほどではないが、東京で街歩きしていて、いかにももう人の住んでいないボロ家に出会うとつい反射的に携帯カメラに収めてしまう。銭湯だって消えつつある東京の遺産だからこそ、廃業と聞けばとにかく都合をつけて駆け付けなければならないと思うし、そうでなくてもあらゆる類いの個人営業の店(例えばチェーン店ではない食堂や喫茶店)をいとおしく感じ、出会ったら写真を撮り、日記に残すと言う作業を止めることはできない。

 で、予告編ですでに映像美にやられたこの作品、世界中の廃墟を記録した映画。廃墟だから人物の登場はないと言う、そう、東京だってどこでも人がいる訳ではない。人が消えた東京の風景も実は多いことが分かってきてから、東京の街歩きは面白いと思えるようになった。

 さて映画作品の方だが、まさかナレーションも音楽も全くない、映像と自然音だけと言う作品の作りっぷりに衝撃を受ける(つまり、映像のロケ地が基本的に不明なのだ)。ここまで無人空間の作品となると、今度は撮影者自身の姿(例えば影が映像に入ってしまったり、雪に足跡が残っていたり、あるいは野生動物たちが襲ってきたり、etc.)が入り込まないか心配になるが、撮影者自身の影も完全に消し去っている。

 前半はかなり日本の映像が多い。と言うことは、やはりフクシマなのだろうか。となれば、プリピャチ(チェルノブイリ事故で廃墟になった町)も当然後半には出てくる。その意味では原発事故批判のトーンがある。

 あるいは、長崎の軍艦島も登場する。実際に世界遺産に指定されたとはいえ、観光上陸と言う訳には行かない訳で、全体としてダークツーリズムを映像表現した作品だと言ってよい。

 しかし、廃墟を訪れることがダークツーリズムなら、例えば考古学的レベルの廃墟、インカやエジプトの観光はダークツーリズムなのだろうか。いや、個人的にはインカやエジプトと、チェルノブイリやフクシマを分けて考える必要があるのか(もちろん、社会的にはそこに暮らしていた人が存命しているか否かでデリケートさは全く違うだろう)とさえ思ったりする。

 先日の都慰霊堂参拝の日記でも書いたが、東京も関東大震災東京大空襲と言う、現代史(つまりまだ生き証人が存命する)で廃墟になった歴史があり、そこからの復興の歴史があるので(原発の観点では、広島長崎の復興もある)、フクシマも復興を遂げるかもしれない。だがこの映像はそんな楽観的な意味など持たせず、淡々と廃墟を写すのみだ。

 それよりも、遺産と言うのは人類から見た都合の良い物言いで、映像が美しいと思う反面、無機質で腐敗することのない人口物が世界中を汚している、と言うのがこの作品の本質的な意図ではないか。他の動物は死骸になっても腐敗して再び土に帰るが、人間が作った人口物だけはこの先もずっとゴミのままだ。ゴミ屋敷に住む独居老人を批判するようなニュースも時々見かける中、そもそも人類全体がゴミ屋敷になりつつある、と言うことの警告が私はこの作品の本旨だと理解している。1時間半ほどの映画だが、そのダークツーリズムはあっという間に終わる。

 帰りは当然渋谷駅を目指す訳だが、たくさんの人でにぎわうこの街にも、あちこちが工事中で廃墟同様の風景が剥き出しになっているし(しかもほとんどの人々がそれをなかったことのように平気でスルーしている。もし近所でこんな大工事されたら、やれ騒音だ、やれ日照権だ、で大騒ぎするのに)、また時々無人空間もちゃんとあったりすることに気がつく。その意味で、この映画を観たら、東京の風景の見え方が一変すること間違いなしの作品。つまり、東京の街自体が作品になる。