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熊野大神社 平成29年3月19日

埼玉県深谷市 熊野大神社

鎮座地 埼玉県深谷市東方1709

御祭神 伊弉冉速玉男命 事解男命

社格 郷社

由緒

十二代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のときに当地を通り、里人に「東の方は何れに当れるや」とたづねたという。醍醐天皇の御代に至り、この地に枇杷の木を棟木として小社を建てて、日本武尊の故事により東方村と名づけられたという。

 天文(1532〜55)の頃、深谷上杉氏の老臣 上敷免城主 岡谷清英(加賀守)の領地となり、清英は当社に社領を寄進して除地(免税地)とした。今、熊野免と呼ぶ地がこれにあたる。

清英とならんで上杉氏の三宿老の一人 秋元景朝(但馬守)は、領地の上野台に居城を構えていた。景朝とその子 秋元長朝(越中守)は、城の艮(東北)の鎮護として当神社の崇敬厚く、天正年中(1573〜92)に、社殿を造営して、本殿の桁に家紋を彫刻した。天正18年(1590)、小田原北条氏没落後は、長朝は徳川氏に仕え、慶長6年(1601)に上州総社に移住した。

天正18年以後は松平丹波守康長が東方城を築いて城主となり、当社を崇敬した。丹波守は居城数年にして慶長7年(1602)に古河に移封され、東方城は廃城となった。

神社の周辺から西の原郷東部にかけて、古墳が多くあり(木之本古墳群)、東方地内からも以前は石器や土器がよく発掘された。祝瓶、鉄刀、家屋形の埴輪など、神社に奉納されたものも多い。東方東部からは幡羅遺跡が発掘されている。また鎌倉〜南北朝時代の板碑多数が林中から発見されている。

伝説として、鎮守の神はその昔、黍の斬り柄に眼を突かれたので、氏子は黍を植えなかったという。

通称

おくまんさま

神社の隣に宮司さん宅があります。御朱印は、そちらでいただきました。

待っている間、神社に棄てていかれたという猫たちにが遊び相手をしてくれました。

兼務社である『日吉大神荒神社(ひよしだいじんこうじんじゃ)』の御朱印をされているか聞いてみたら、

印は総代さんが持っているので、書くだけになってしまう。

との事でした。